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「神は妄想である―宗教との決別」

神は妄想である―宗教との決別神は妄想である―宗教との決別
(2007/05/25)
リチャード・ドーキンス

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 すごいの一言。
 自分は理科教師の一員として無神論者であるけど、害のない宗教に対して寛容でした。新興宗教を信ずる知人で尊敬すべき人もいますし。ただやはり原理主義者というか、度の過ぎた狂信者、他人に害を与える者は許されない。
 ドーキンスは、その辺かなり厳しく断罪しており、これだけの量を使って神の存在を否定してゆく。ドーキンスの議論の進め方に慣れた者にとっては次の展開が読めたりして、その辺も面白かった。初めてドーキンスを読む人はびっくりしたのではないでしょうか。一歩ずつ、論理を進めていき、気が付いたら「そうか神はいないんだ。」となるはずです。
 信者に向けて書いたものではなく、なんとなく世間体でクリスチャンを名乗ってはいるが、実のところ科学的に考えたら神なんていないよなと思っている者に、勇気を持って無神論者を名乗ろうというんがこの本の趣旨です。それほど成功したかは知りませんが、日本ではちょっと違う読まれ方をされるのでしょう。

 感心したのは、大人はまだしも子どもへの宗教教育は虐待に近いという議論。分別の付かない子どもにそういったものを植え付けるのは虐待であると。まさにその通りだと思う。なかなか考えさせられる一冊でした。
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theme : 哲学/倫理学
genre : 学問・文化・芸術

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まとめteみた.【「神は妄想である―宗教との決別」】

神は妄想である―宗教との決別(2007/05/25)リチャード・ドーキンス商品詳細を見る すごいの一言。 自分は理科教師の一員として無神論者であるけど、害のない宗教に対して寛容でした。新興宗教を信ずる知人で尊敬すべき人もいますし。ただやはり原理主義者というか、度の...

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パラダイムシフト

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。
だから自我は客体認識の反射作用としてある。
これは逆ではない。

しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。
すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと
なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。

これは神と人に共通する倒錯でもある。
それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。
だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。
いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。
あれは空, それは山, これは自分。

しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。
山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。
自分というものはない。
自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。
それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。

そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。
鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。
なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。
言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。

だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。
そんなものはどこにも存在していない。
神, 霊, 悪魔, 人。
そのような名称に対応する実在はない。

それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。
私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。

これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。

だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」


神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。




...思想家風情がバカなことを抜かすな。
お前には、如何なる方法にも正しさはなく如何なる方法もあり得るのだ、という中立な視点は無いのか?



神に対する否定的態度

> 自分は理科教師の一員として無神論者であるけど、
ポール・エルデーシュは“ビッグ・ボス”(=神)の傲慢に対する憤りを隠していなかったように記憶しています。

アンドレ・ヴァイユの娘であるシモーヌ・ヴァイユも、神を否定しつつ神を信じる、という態度を取っていたように思います。

人格神であり父権的な神である欧米的な“神”観と、自然神であり、道教における混沌や日本神話におけるアメノミナカヌシのような、「ただそこにある」ような“神”観はまた別物かと思いますし、ギリシャ・ローマ的な多神教はまた別の見方があると思います。

一神教であると思われているキリスト教も、福音書を読むかぎりにおいては(つまり、原始キリスト教においては)、ユダヤ教的な神のイメージより、もっとユルい“神”観を基盤としていそうに思います。

ですから、唯一絶対神であるはずの欧米的な“神”を、日本人は受けいれにくいように思います。そのあたりを描いたのが、遠藤 周作の『沈黙』ではないかと。

少なくとも、光速だのプランク定数だの電子の電荷だの重力定数だのといった物理定数を決めたのが神様だとしたら、「神グッジョブ!」と言わざるを得ません。とりあえず私はここに存在し、こうして神について考えることができるのですから。
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Author:AmateurD
 進化生物学を学ぶアマチュアです。本業は数学教師です。ほとんど自己満足の日記と化してますが、コメントどんどん下さい。質問・議論・アドバイスも歓迎です。

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